8日目

誰しもが一つや二つ,別に意味はないけれども好きでやっていることがあると思う.たとえば,子どものころにミニ四駆を作ったこと.別にレースに出るわけでもないし,頻繁に友達が家に来るわけでもないのに,なぜ作るのか.走らせること,あるいは作ることが楽しいからだろう.

 

一人で将棋を指すこともその類である.定跡が書かれた本ではしばしば,「・・・となり,飛車が捌ける」と〆られることが多いが,その先には多くの紛れが存在する.実際はどうなるのだろうという思い,相手もいないのに一人で並べ進める.いま振り返ると,こうして客観性とか凝り性というものが形成されていくのかもしれない.

 

大学生のころ,研究室に入るまでは学術的に気になることがあっても試す術はなかったが,博士課程の知り合いに話し相手になってもらっていた.稚拙な考えだったのだろうが,先輩は先輩で学科が違うぼくから自分にはない考えを取り入れようとしていて,たぶん何かが成立していた.

 

研究室に入ると,自分で試せるようになった.目的や意義の設定が必要だったが,設定する過程で世界がどこまで広がっているかがわかってきた.水平線の向こう側には新たな水平線が広がっていると思っていたが意外と断崖絶壁で,「それでいいのか?」とあてのない誰かに問いかけたくなった.過去・現在・未来のどれでもないような気がするのだけれども,あれは誰だったのだろう.