14日目

いまどき故郷なんて言い回しをする人は少ないし,ぼくもあるはずがないと思っていた.でも,10年以上前に1年間だけ留学で済んでいた町は唯一の帰るところで,これまでに2回帰っている.人口2000人の田舎.地平線まで見える,古き良きアメリカだ.ちなみに成田からだと最短でも20時間,ローカルすぎて日本の旅行会社では取り扱っていない.

 

最初の帰省はラボに入る直前.研究者になる以上は旅行なんて暇はとれないと思い,人生最後の自由な旅行として帰った.往路はブリザードのため国内線で6時間の足止めを食らい,着いたのは明け方4時.長旅だったが翌日から両親の仕事を手伝ったり,友達の家にアポなしで行って驚かせたり,そんな楽しい日々だった.

 

次,といっても最後なのだが,帰ったのは数年前の年越し.dadが車いす生活になってmomの手伝いも兼ねた介護帰省.ご多分に漏れずこのときもブリザード.しかも飛行機は途中までしか行かず(※田舎だと電車みたいにいくつか経由する),次の便は3日後.いわゆる必至じゃんと思ったが,ゲート前で隣に座っていた見知らぬおばちゃんが電話で,「あんた,○○に住んでるわよね.××まで送って!」と行っているのを聞いて,「初めましてで悪いんだけど同乗させてくれないか.6000マイルも来て残り500マイルなんとかしたい.」と頼んで何とか現地入り.当然かなり怪しまれたが,パスポート見せて名刺渡して名前でググらせて,日本の大学教員であることを確かめさせた.プライバシーが無い職だが,このときばかりは情報が公開されることに感謝した.

 

空港の待ち時間にメッセンジャーで約束を取り付けた友達の家に泊まり,翌日に帰宅.典型的アメリカ人体型だったdadはやせ細っていた.医療制度がまったく違うので,日本と違って簡単にはケアを受けられず悪化したと思っている(アメリカ人的にはこれが普通だろうから完全に視点の問題).

 

華氏でマイナスくらいの極寒のなか馬小屋を掃除したり,dadを病院に連れて行くべく担いで車に押し込んだり,そんな毎日だった.1階にあったぼくの部屋でdadは終日寝ていたから,ぼくはcouchで寝泊まり.でも,ドアがきちんと閉まらないおかげで隙間風が派手に吹き込んできて震えながら寝た.でも,嫌というより可哀想という感情の方が勝っていた.momは介護疲れで当たりが強かったけど,わかっていたからただただ受け止めていた.10日間の滞在とわかっていたから,精一杯受け止めた.

 

友達の大部分は遠くに行ってしまったけれど,仲良しのグループは近くに住んでいた.ぼくの介護疲れを察して,家に呼んでくれたり,泊めてくれたりもした.地球の裏側から来た高校生のぼくを受け入れてくれた彼らは,何年経っても何も変わっていなかった.変わらず優しく,久しぶりに会ったにも関わらず「ボードゲーム持ってきたぞ!」とルールを説明し始めるほど無茶苦茶だった.ぼくが日本で何をしていたかなんて全然聞かなかった.

 

たぶん,昔のぼくが何をしたかよりも今のぼくがどうであるか興味を持ってくれていたんだと思う.