28日目

2年半ほど前のこと,卒研時代の指導教員に「きみ,文章書けるんだね!」と言われた話.

 

某所で書き物の仕事を始めたころでそれを指してのことなのだけど,当時は「今まではチンパンジーか何かと思っていたのか?」と困惑したけど,最近意図するところがわかった:山のように書き物の仕事が降ってくる.言い換えると,「人に読ませられる程度の文章を書けるというのは実はレアスキル」ということになる.

 

念のため断っておくとこれは論文執筆とは違う能力で,さまざまな読者層を想定して書き回せることを「文章が書ける」と総称している(のだと思う).実際わりとめんどくさくて,たとえば学部1,2年生,卒研生,修論生,博士課程以上,で分けたら全然違う書き回しになる.ある特定分野の専門書を書くにしても,複合体を使っている場合は組み合わせるモノは非常に奇特なことがあるので,それを易しく書く必要がある(もちろんくどくないレベルで).

 

こう考えるとぼくたちは割と心当たりがあるはずなのだ.教科書・専門書を読んだときにやたらと読みやすい/読みにくいものに遭遇したことがあるはず.これは,単純にぼくたち読者には過ぎたレベルの本を選んだ可能性ももちろんあるけれども,そうじゃない場合(だいたいは読むうちに読者が気づくものだが)書き手が文章を書けていない可能性が高い.

 

とはいえ,書けないのをチンパンジーのように呼ぶのも失礼な気がする.チンパンジーは割と賢いから.

27日目

生き急いでいまに至るとはいえ,ロートルとの出会いは少しだけそれを緩やかにしてくれた.恩師は還暦,つまり引退間近のロートルだった.でも,(兄弟子曰く)昔と変わらず情熱的で仕事も早く,ぼくには到底追いつけない存在だった.それだけでも十分なのに,同じ部屋にはその恩師である大先生も数か月だけ一緒にいた(大先生はまだご存命だけれども,当時は体力的に厳しかったので某大に仕事の拠点を移された).

 

恩師は比較的朝型で,朝の連ドラが終わると出勤していた.だから何となく9時くらいには学生が揃っていた.大先生はもっと早く,始発で出勤していた.忘年会で徹夜をして翌朝に帰ろうとした先輩は,帰り道ですれ違ったこともあるらしい.特に世間話をするわけでもなく,論文を出すときにチェックをしてもらい,拙い内容なのに「これは良いですね」と褒められていた.大先生に褒められて自信をつけていた自分が確かにそこにはいた.恥ずかしい話である.

 

ある日,大先生と面談をしたとき,「きみ,私の本は持っているかね」と聞かれた.持っていないのでそう答えたところ,「そうか,次会うときには持ってくるよ」と言われ,つまり早く論文を書けば早くもらえるのだな,と思っていた.翌朝,ぼくはいつも通り8時前にラボに来た.するとその直後,部屋の扉をノックする音がしたので誰だと思いきや,大先生だった.驚くぼくを前に,「はい.昨日,○○先生のところに電話したら1冊残っていたようで,ラッキーだったね」と.そのまま,サラサラと日付とサインをされて手渡され,「じゃ,××先生(恩師,つまり大先生のお弟子さん)によろしく」と去っていった.

 

もちろん普通の本ではなく,大先生がこれまでにどのような研究をされてきたのか,生きてきたのか,オムニバス形式でまとめられている本だった.有志による出版のため非売品,現在では数えるくらいしか確認はできないらしい.一気に読む代物ではなく,いまいち読み方がいまだに分からない.とはいえ,年に何度か開いて行間からにじみ出る雰囲気をひらりと感じている.

 

ロートルが作ってくれた道をぼくは歩んでいる.

26日目

今日はヅカ★ガールという劇団の妖花迷宮を観に行った.音楽や絵画を含めた芸術を自分で嗜むことはないのだけど,観るのは割と好きだ.この劇団も旗揚げ前の団体のときから応援していたけれども,なんかここ6, 7年はひどい忙しさだったのでとんとご無沙汰になってしまった.

 

それはともかく,表現することは楽しいんだろうなと終わってみて思った.相手が人という点ではぼくがやっていることとは似ても似つかないけれども,何かしらの形で自分を出したい,あるいは世の中に何かを問いたい,そういう人・ものは見ていて面白い.一ファンのぼくができることといえばせいぜい観劇に行くことぐらいだし,そもそもそれもご無沙汰だったとはいえ,また応援し始めるのも趣味の一つとしても悪くないな,と思った.

 

いくつかの分からないことが日々を流れ,日常が日常であることを感じる.自分が学生のときにされたこと・してほしかったことをしているつもりだけれども,最近は限界ギリギリまで追い込まないと厳しい.どちらというと,もう限界を突破してしまっている気もする.とはいえ,弱音を吐いても始まらない世界だし,学生にはそれを悟られずに振る舞わねばなるまい.

 

観劇という非日常を楽しむことが,日常を楽しむコツかもしれない.

25日目

Dadの誕生日だったので電話をかけた.向こうは夜,いつもの常識的な時間にかけた.Momが出たのだけど,誰かとケータイで話していたところに固定電話でぼくからかかってきたようだった.ここ数年は毎年電話をかけているせいか,それともただの思い違いなのかわからないけれども,とにかく喜んでくれていた.ちなみに先に話していた人は,2年前に帰ったときに泊めてくれた友達の親だった.

 

Dadは少し元気そうだった.2年前は話せず寝たきりでとても心配したけれども,何とか話すことはできる程度に元気だった.Momも元気そうだったCOVID-19で仕事が大変とぼやいていたけど,ピリピリしている感じじゃなくて安心した.お互いの近況を少しだけ話した.暗い話をするのは素敵じゃないから,ぼくも楽しい話だけをした.たぶんそれで正解だった.

 

もう10年以上前のことなのに,昨日のことのように覚えていることがたくさんある.ぼくにとっては毎日が特別だったけど,彼らにとってはただの日常だった.ぼくと同じように当時を懐かしんで,一緒に笑ってくれることを嬉しく思う.

 

幾ばくかの辛い日々も,いつかは笑える日が来るのだろうか.わからないけれども,そういう優しい世界であってほしい.

24日目

種もみを食べてしまったらもう稲は生やすことはできない.わかっていても種もみを食べれば一時の飢えは凌げるし,満足感も得られて楽しい.でも,じわりじわりと貧しくくなっていくことも頭では理解している.ジリ貧になる前に食べるのを止めるか,新しい種をどこからか調達するかをできる人は多くない.

 

井戸を掘るのだって鉱山を掘るのだって同じだ.いつかそこの資源は途絶えることをみんな知っているのに,掘ることを止めない.かくいう自分も公共のライフラインのおかげで生活できているのだから,同じ穴の狢ということになる.考えるべき対象が自分なのか,地域なのか,世界なのか,階層は違えどみんな同じ局面に異なるタイミング,異なる環境で直面している.

 

自分の専門分野で自分より秀でている人は履いて捨てるほどいるのだから,そういう人に任せるというのは立派な一案だ.でも,正解がその専門分野になかったらどうしようもない.金脈から遠く離れたところで一生懸命になっても,何も出るわけがない.でも,どこに金脈があるかなんてわからない.

 

ところで,正解ってなんだろう.わからないまま大人になったけど,どちらかというとよりわからなくなった気がするし,そうであるとわかったような気もする.

23日目

為すべきことがわかりつつある,そう感じる.同時にそのような生き方は多くの人のそれあるいは考え方とは似ても似つかないものだとも気づいている.俗世から離れることが高尚だとかそういうことではなく,ただ単に見たいものに対する大きな乖離を感じている.

 

高校生のときに世界の広さと人種・言語の壁を目の当たりにし,学部生のときに科学の広さと限界をうっすらと感じ,院生のときに人間の浅さと寿命の短さにいら立ち,教員になってから悠久の流れにいることを知った.

 

今は大きな流れの中に生きているに過ぎないことを認識していて,そこに主人公性を求めるという人間的な活動をしている.そういう意味では十二分に俗っぽいのだが,俗っぽい遊びを興じているだけかもしれない.

 

現実が霞がかった世界であることに気づいたせいか,蜃気楼よりも確かであればと思うようになった.謙虚で同時に傲慢な話だ.

22日目

ドラクエみたいなターン制ゲームには「逃げる」というコマンドがあって,中上級者になるとだいたいは使わないけれども,初めての人はお世話になることもままある.パーティが全滅したら所持金が半分になるとか,そういう場合はなおさらである.ゲームによっては逃げた回数が記録されることもあり屈辱に感じることもあるだろうが,だいたいそういうゲームは全滅した回数も記録されるのでピンチになる時点で完璧主義者のプランは崩壊している.

 

人生も「逃げる」コマンドはもちろんある.程度によるけど,仕事を辞めるとかはその最たる例だ.人間関係を切るのもそのうちに含まれるだろう.後者は積み重ねたものが多いときほど難しい決断だ.たとえ「逃げる」がベストなコマンドだったとしてもそれを選べる人はそうは多くない.逃げればまた戦えるかもしれないのに,突撃して全滅して取り返しのつかない事態を引き起こしがちである.

 

バトル系マンガでは死闘の末に主人公がボスを倒すというある種のお決まりの展開があるが,ぼくはあまり共感できない.むしろ,「勝てない・・・いまは撤退だ!」の方がリアルで,そういう決断ができる才覚はもっと評価されるべきだと思う.たぶん,そういうマンガはリアルで面白い.なんなら,そのボスは倒さずにエンディングを迎えるのでも構わない.逃げた時点で違うルートが開けていて,それを選ぶことを負け犬とみなすのか,生きる活路を見出すのか.死んだら終わりなのだから考えるまでもない.

 

ゲームや漫画を現実世界と一緒にするなという意見もあるだろうけど,現実世界で生きる以上はゲームや漫画を引き合いに思慮をめぐらすことは悪くないと思う.そういうポップな考えを導入できればいくぶんかは生きるのが楽になるかもしれない.